ア ス ニ ア 通 信 1                2004.01(No.67

   2004.01
迎  春

新春のお慶びを申し上げます。
皆様とご家族の方々にとって今年が良い年でありますようお祈りいたしております。 

 

  子供の頃に『一休さん・良寛さん』のお話を聞かれたことがあると思います。一休さんについては一休寺という立派なお寺とお墓が京都府京田辺市にあります。良寛さんについては子供と一緒に一日中手まりをついて遊んでいたとか、盗人に自分が着ていた着物をあげたとか、かくれんぼで朝まで鬼でいたお話等が伝えられます。

 江戸末期、良寛さんは漂白の旅を終え、越後(新潟県)国上山(くにかみさん)の真言宗名刹・国上寺(こくじょうじ)に広さが六畳位の五合庵を建て、1831年(天保2年)74歳で亡くなるまで20年間を過ごされました。その越後の国に生きた一人の乞食僧・良寛さんに、最近俄かにスポットが当たっています。

 自らを“大愚”と称し、信教と文学の深さを極めながらも、子供と近所の農夫に接しては難解なお話はせずに『和願愛語』の無垢な言行をしました。死ぬまで子供のような純真さを保ち、他人に優しく、自分に厳しく生きた、その生き方はやがて伝説となり、今へと伝えられています。数々の逸話の他にも、清貧のままに生きたことを表す詩歌や、素朴な書が大切に残されています。

   それでも晩年は40歳もの年の差がある弟子の貞心尼との恋のエピソードも残っているそうです。貞心尼の書『蓮の露』の中に良寛さんとの事が書き残されています。
      形見とて なにかを残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉
が良寛さんの辞世の句です。 

    自然を破壊し、自分の心を壊してまでも追い求めなければならない経済復興は『何のためだったかと・・・』今、問うた時に見えてきたものは対極にある清貧です。何故かわかりませんが、豊かさの対極にある良寛さんに関する本や雑誌の特集を書店でよく目にするようになりました。 今でも良寛さんの資料館には、その頃使っていた手まりが幾つか残されています。

 

  抵抗力・免疫力を  

高めるには 

 

   いつも変わらずに元気である。いつも病気がちである。人によって違う元気や健康の差というものはどこからくるのでしょうか。家族の中で一緒に生活している子供達でも、元気な子供・病気をしやすい子供と差が出てきますが、その差はどこからきたものでしょうか。人の体内へ侵入してくる病原菌に最初に反応するのはマクロファージ(食細胞)やナチュラルキラー(N・K)細胞で病原菌にすばやく反応して殺してしまいます。 その免疫力の差が病気になる、ならないの差です。そして体力(抵抗力)があれば仮に風邪を引いても咳をする程度で軽くて済むのです。リンパ球が働きまわる組織体を「免疫系」といいます。人体には生命を守るための、あらゆる「免疫系」組織が備わっています。単に病原菌をやっつけるだけのものでなく

例えば打撲、外傷等による刺激から守るもの。
傷, 疲労等の刺激から回復させる体力。
恐怖, 不安といった精神面を癒すもの
も含みますが、すなわち広義の免疫力が病気から体を守ります。 

 人の健康度は普通には同じレベルですが、60歳を過ぎると免疫力は極端に下がります。例えば病死の場合、ガンよりも、体力の低下、免疫力の低下から感染症等で死亡する例の方が実際は多いものです。セルフ・メディケーション(自己治療)ということがよく取り上げられるようになりました。 子供が誕生した時、赤ん坊にとって必要な物は初乳つまり母乳です。

  母乳には赤ん坊が必要とする栄養素が豊富に含まれています。これから出産するお母さんはできれば母乳で育てて欲しいものです。大きくなった時に母乳で育ったことと、育っていないことの差は子供さんの体にとても大きい問題を提起しています。実際、ストレスに対抗する免疫力について低下の差は想像以上のものがあります。

 日々の積み重ねは大切です。その生活習慣の差が510年後に「生活習慣病」を起こします。もう一本のタバコ、もう一杯のお酒、もう一膳のご飯が積み重なると生活習慣病へのステップです。食に関する我慢も、時には必要だと思われます。ただし一方好きなことを我慢しつづけることもストレスに繋がります。自分の身体と心に相談しながら日常生活を過ごしてください。

 人間も動物も小食では死にません。残念ながら過食と美食と偏食が全ての病気の大元になっています。今一度、家族の暮らしの中で食生活を見直してみませんか。

女性にとっての美貌や美肌を保つ時も同じ事を気遣えばいい筈です。三年五年と先を見越して、今の日常生活の中にてらして、内面・外面から磨いていくようにしましょう。

 

新 春 特 集   人々の思いは・・・『西行法師について』  

   

  以前アスニア通信に西行ゆかりの寺(勝持寺・弘川寺)を訪ねましたと書きましたらお客様の中に短歌が趣味の方がおられまして西行のことをお話くださいました。没後800年が過ぎても歌聖といわれ、その歌は奥深く読めば読むほど年代とともに、その句の深さが理解できるそうです。西行研究者・好事家の関心事で、いちばん不可解な謎とされているのが23歳で何故出家、遁世の道に入ったかということです。鳥羽院の警護にあたる『北面の武士』が出世道を捨て仏道に専念する影には、無常感に苛まれていた一面もうかがえるのです。西行自身何一つその理由を述べていない以上、全ては憶測の域を出ませんが...。数多くの研究者がその謎を解こうとして、彼の詠んだ歌を研究しています。

見る人に 花も昔を 思い出でて 恋しかるべし 雨にしおるる
花を見る 心よそに 隔たりて 身につきたるは 君がおもかげ
 葉隠れに 散とどまれる 花のみぞ 忍びし人に 逢う心地する

  以上3つの歌も西行出家の意味を探ろうとする研究者は、戯れに詠めず、手の届かぬ、思い叶わぬ高貴な人への思いと詠みとっていますが、自ら語らずして最後までその意志を貫いた西行が偲ばれます。一説にそのお相手は白河法皇の養女で、西行出家当時40歳であったといわれる、侍賢門院障子であると言われています。当時の彼女は、他に並ぶべくもない美貌の人であったといわれています。好事家が西行に対して思い込んだ憶測なのかも知れませんが、今も尚二人の接点や逢瀬があったかどうかは永遠の謎だといわれています。西行の上司であった藤原頼長の「台帳」に『・・家富年若ク、心愁無キモ、遂ニ以テ遁世ス。人之ヲ歎美セルナリ』とあります。文武両道に秀でた前途洋々たる青年武士が惜しまれて、出家に対する人々の思いを推して量ることが出来ようかとあります。勝手な思いですが西行が出家して頭を剃ったといわれる京都の勝持寺から終焉の地である弘川寺にたどり着くまで57年の歳月が流れています。大阪府の外れにある弘川寺は今でも静かな山里にあり、800年前の里はもっと静寂の中にあったと思われます。その最後を思うと “見事に生きた”と感じました。

  二度目に弘川寺へ参り、寺庭の掃き掃除をしている方に尋ねると、知人と一緒に来た翌日から2年間毎週一回お掃除に来ているとの事でした。ここにとても安らぎを感じ、そうせずにはいれないから...との事です。その方はバイクで1時間かけて東大阪から来て、額に汗を流しながら楽しそうに語っておられました。その姿を見ると本当の意味での奉仕とは、こんな事かと思いました。名も無き市井の人がここで楽しそうに汗を流している事に感動しました。人にとって“己を生き抜く”とは何なのでしょうか。

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